大学院新入生の皆さんへ
掲載日:2012/04/12
千葉大学大学院に入学された修士課程、博士課程、専門職学位課程の皆さん、入学おめでとう。
皆さんはこれから、いろいろな分野で研究者として努力されることになります。皆さんがそれぞれの研究の対象を何にされるかは別として、始めようとする動機となった対象は何かを明らかにされることを待っているものであり、複雑で混沌とした対象であるといっても過言ではないと思います。それらを解析し、不明の点を少しずつ少しずつ明らかにしながら極めて特化した、そして純化したものへと進んでいくのだと思います。たとえ対象がどんなに複雑にみえるものであっても、その中に必ずあるであろうと信ずる単純な法則や論理へと導くことを進められるものと思います。そしてそれは、現代の科学の多くが求めていこうとする時の手法であると思います。それ自体が間違った手法とは思いません。しかし、極めて狭い領域になってしまったその成果をどのように考えていくかということには、極めて細心の注意が必要と考えます。それをどんなに単純にみせようとも、どんなに狭い領域であろうとも、得られた成果の解釈をする時には、それを構築しているであろう多彩な要因の存在を考えねばならないと思います。そして、自らの成果を人々に伝えることも極めて大切な研究の一部であり、それを成し遂げるために豊富な深い知識を必要とするのだと思います。もし、そのような多彩な領域を動員することができないとするならば、それは自らの学問ということにはならないといっても過言ではないと思います。ましてや、世界に広く認めさせる、いわゆる国際的に認められることも少なくなると思います。日常に私達は日本語を使用しているということは、ある意味では日本人は英語圏の人々に対してある意味のハンディキャップがあると言うことも出来ると思います。しかし、それだけでしょうか。近代日本の文化や学問、あるいはいろいろな社会組織形態がタコツボ型になっていると指摘する人もいます。これはまさにそれぞれの領域が孤立してタコツボのように並列して存在している状態を示します。即ち狭い領域にあるものは、他と交流することなくその世界にとどまっているだけと言い換えることも出来ると思います。
タコツボ型に対して別の文化学問の領域の形成の仕方について、丸山真男氏は著書「日本の思想」の中でササラ型と表現しています。これはササラとは竹の先を細かくいくつにも割ったものをいいます。一見毛筆のような姿を想像していただければよいかと思います。すなわち太い幹から細かく分かれてもそれらは太い幹に常につながっており、細かく分かれたものがそれだけで進んでいくことはないということを言いたいのだと思います。このような表現で日本の学問文化の成り立ちを考えてみますと、日本にヨーロッパの近代科学が移入された19世紀後半は、ちょうどヨーロッパでは社会の組織の上でも、あるいは文化形態の上にも専門家現象、つまり分業とスペシャリゼーションが急速に進んだ時代であります。例えば、社会科学を考えますと、19世紀の前半の学問の形態と、後半の学問の形態とはその在り様が一変しているといいます。19世紀の前半を見ると、いろいろな学者は法律学、経済学、社会学というような個別の科学の分類ではどこに入るか分からないような非常に包括的な総合的な学問体系が輩出していることが分かります。当時の学者達の、例えばヘーゲル、マルクス、ベンサム、コントという学者達の足跡を見ても述べられている領域についても一定の型にはまらないことに気づかされます。即ちいろいろないわゆる領域が混在してその人の学問が形成されていたということだと思います。
ところが、これが19世紀の後半になりますと大きく変化し、それぞれの領域が分かれてササラ型の細かく分かれたところが幹から分離して、いわゆる狭い領域が一人歩きしているというタコツボ型になっていきます。このようになった頃に日本への文化、科学の移入がタコツボの中からひとつひとつ行われています。このような背景を考えますと、我々は意識して研究の成果の持つ意味を、そしてそれを表現する手法を考えることが必要と思います。知識とは一つ一つがバラバラに単純に存在するものではなく、別の知識とどのように結びつき、全体としてどのような構造になっているかということが大切なのだと思います。そこからこそ研究の進展が生まれてくるのであり、その成果を人類に真に役立てることができるようになると思います。
このような展開を考えてきますと、学問は、あるいは研究の成果は、世界の人類が共有していかなければならないという考えが求められると思います。常に世界を意識して世界と共に歩むということだと思います。これがある意味のグローバル化ということだと思います。グローバル化にとって最も大切なことは何でしょうか。言葉を自由に使えるということも大切ですが、それよりも相手国の人を、文化を理解できる人間力であると思います。演出家蜷川幸雄氏はギリシャ悲劇「トロイアの女たち」を演出する中で、中東和平問題を取り上げ"他者をどうやって容認できるのかというテーマに挑戦する"といっておられます。"演劇は人間同士がコミュニケーションしなければ成り立たない、そのことを演出するために舞台では共通の言語ではなく、それぞれの国の人がそれぞれの国の言葉を話して異質の言葉が飛び交う中で、必死に相手の言葉を聞こうとするという演出とされています。それは、鋭敏な感覚で言葉の裏側にある内的な言葉を求めるということを示すということです。それが、私達がもしかすると日常怠っている根源的なものを求める力になっていくのではないかと訴えています。"またいい俳優は言葉を超えていくのです。"とも言っています。何かを伝えねばということを専門とする人々の強烈な思いを知ります。
大切なことは、自らの研究者としての研究の中にも多様な思考の展開が求められ、決してタコツボの中に安住するのではなく、いろいろな困難を乗りこえて世界と共に歩み、理解を深めていく責務はあることを知って欲しいと思います。それをあなた方に社会が求めていること、そして期待されていることだということを知ってほしいのです。
本日は多くのご家族、関係者の方々のご列席を賜り感謝申し上げます。
入学された方々とともに新たな気持ちで学問への旅たちをします。どうぞ暖かく見守っていただくことをお願いして私の告辞といたします。
平成24年4月12日
千葉大学長 齋藤 康