第6回 移民難民スタディーズ研究会 報告
人の移動から見るヨーロッパ
2021年1月21日(木)
司会:崎山直樹(千葉大学国際学術研究院)
報告
「東地中海における移動の政治――戦間期ドデカネス諸島を中心に」石田憲(千葉大学社会科学研究院)
本報告は、移動、移民、難民といった諸概念を考えながら、東地中海をめぐって生じた人々の往来とそれに伴う政治の諸相をテーマとしたものである。具体的には、エーゲ海におけるイタリアのヨーロッパ内植民地ドデカネス諸島、とりわけカステロリゾ島とカリムノス島を取り上げつつ、住民たちの対応も含めた双方向の動きを検討しながら、移動をめぐる政治の問題を考察する。
地中海内の人の移動は主体的選択によって展開されていたが、戦争によって強制的な住民の追い出し圧力が加わっていく。同時に、直接の強要ではない場合でも、経済・社会的理由による移民という消極的選択も顕著となったのが、第一次世界大戦以降の趨勢であった。戦間期、ドデカネス諸島から見た主たる人の移動は次のように展開された。まず、同じ地中海の島であるマルタは、ナポレオン戦争以来のイギリス領であった。しかし、軍事基地以外の役割がないゆえにイギリス本国からの資金投資も少なく、主たる産業もないことから長らく困窮状態に陥っていた。こうしたことを背景に、オーストラリア、ドデカネス諸島、アメリカ、アフリカ、キプロス島など方々に人の移動が頻発した。いちばん貧しいマルタからキプロスやドデカネスへも移民も見られたが、マルタ出身者はこれらの国でも排除され、結果的にドデカネスからアメリカ、アフリカ、エジプト、パレスチナ島へいわば玉突き式の移動が生じた。さらに、第一次世界大戦で、オスマン帝国やロシア帝国が崩壊すると、そこからアルメニア人がドデカネス諸島に流れ、トルコにいたギリシャ系住民がドデカネスへ、というさらなる人の移動が引き起こされた。以上のように、戦間期ドデカネス諸島における人々の移動は、移民、難民が混在したかたちで生じていた。
では、東地中海で送り出し圧力の中心となる植民地支配権力側の動向として、住民の包摂と排除がどのように行われたのだろうか。例えばイタリアの植民者には大きく分けてユダヤ系、トルコ系がいたが、1920年代にはユダヤ系マイノリティはある程度配慮がなされていたものの、やがて1937年に人種法が制定されるなど、ユダヤ系住民を排除する傾向が強まっていく。そのような中で、戦争に翻弄された住民側からの主体的な抵抗もみられた。例えば、カステロリゾ島において、反オスマン蜂起がなされたのは1914年のことであった。スポンジ産業で栄えていたカステロリゾ島は、さらなる独立を求め、いち早くオスマン蜂起をした。ところが1943年にイギリス軍がカステロリゾ島に上陸すると、避難と称して住民をキプロスに追いやり、さらに、ドイツ軍の進駐を防ぐため、島内の住宅や井戸を破壊してしまう。これにより避難した住民は帰る場所を失ってしまうが、戦後もイギリス軍による保障はなされなかった。これに対し、オーストラリアに移民していた元住民たちの強い訴えが行われ、1964年、国連理事会はカステロリゾ島を含むドデカネスとギリシアの統一を承認し、実現された。これらの事例は、移民と呼ばれた人たちが自らの解放を主体的に行なった事例という点で示唆的である。
「フランスにおける移民の軌跡:1920年代の外国人労働者とその家族」中村千尋(千葉大学社会科学研究院)
本報告は、ヨーロッパにおける人の移動に関する一事例として、1920年代のフランスで見られた外国人労働者、特に在仏外国人の中で最も増加したポーランド人移民労働者とその家族の移住過程を検討することを課題とする。19世紀末以降、フランスでは外国人に関する公的な制度が構築されつつあったものの、1920年代において国外からの労働者の導入は産業界のイニシアティヴに委ねられていた。
2018年時点でフランスにおける移民人口は649万人ほどとされ、その内訳はフランス国外で生まれて国籍を取得したフランス人245万人と、外国人404万人である。ここには生まれた時からフランス国籍を有する移民2世、3世等は含まれず、移民数は過小評価される傾向にある。
さかのぼって1920年代には、身分証の交付が雇用資格に結びついていた。フランスへの移住には仕事の有無が問われるということである。この時代における移民受け入れは、フランスと移民送り出し国との間で結ばれる二国間協定を通じて行われることが望まれた。実際に第一次世界大戦期、慢性的な兵士・労働者不足から外国人の組織的な受け入れが展開された。二国間協定においては、個人移民と組織移民を区別(個人移民に関しては出入国の自由を原則)し、組織移民の管理が目指された。また、相互性に基づく労働者保護制度(均等待遇)が制度化され、外国人労働者との競争からの自国民労働者の保護が追求されることとなった。このように、均等待遇を盛り込んだ二国間協定は、外国人の社会的包摂に限定的ではあるが一定の役割をはたしていたと考えられている。しかしながら、制度と実態の間に乖離が生じていたのも事実であり、外国人労働者の社会的保護に限界がみられた。他方、移民政策の責任機関の不在という課題も生じたため、省間の連携強化のために中心組織の創設を求める声があがった。最終的には実現には至らず、省間移民委員会、全国労働審議会の設置による連携強化という折衷案がとられた。
1920年代のフランスにおいては、公的組織と民間組織(移民会社など)の相互補完関係のもと、移民(外国人労働者)の導入が進められた。フランス北部の炭鉱では、第一次世界大戦時からポーランド人労働者の獲得が行われていた。移民会社の積極的な働きかけもあり、ポーランド人労働者の受け入れが増加した。経営者側から見たポーランド人労働者の導入には次のようなルートを辿る。まずフランスの県立職業紹介所か民間の移民会社に申請書を提出し、労働省や農業省の審査を経て、許可が得られると、ポーランド側に申請書が送られ、ポーランドの職業紹介局で募集が行われる。候補者は職業検査やパスポート作成、労働契約書への署名を行ったのち、フランスに移送される。フランスの企業側が作ったパンフレットによれば、雇用主が申請書を提出してからおよそ3、4週間で労働者を受け入れることが可能であったという。20年代のフランスは労働力不足のため、1ヶ月で労働者を雇い入れることができるのは雇用主にとって非常に魅力的な制度であった。最初は炭鉱、鉄鉱山、農業の分野で移民労働者が受け入れられたが、その後は多岐にわたる産業で受け入れられるようになった。契約期間ははじめ1年間であったが、次第に呼び戻しが頻繁に行われるようになった。
労働者の定住には家族移民の受け入れが不可欠であると考えられ、鉱山では企業パターナリズムのもとで住宅、教育などが提供された。特に離職率の高かった鉱山では、家族移民の移送費を負担、ポーランド人司祭の呼び寄せ、ポーランド語授業の提供などの対策がなされた。公立の場合は補講授業として、私立(炭鉱学校)では時間割内で、ポーランド語の授業が実施されるなどの支援策が取られた。特にポーランド人にとって炭鉱学校は魅力的であり、一般の生徒に比べ私立校への進学率が高くなった。ポーランド人に対する教育が行われていたことは当時のフランス国内では例外的なことであり、このようなパターナリズムの実践がコミュニティの形成につながったと考えられる。その後、1927年に国籍法が成立した。この27年法はもっともリベラルな国籍法とされ、3年間居住すれば外国人に帰化の権利が認められるというものであった。しかしながら、ポーランド人移民の帰化の申請数は非常に少なく、フランス国籍の取得を促進するものにはならなかった。企業パターナリズムは労働力を確保し定着させるための便宜上の措置にすぎず、結果としてポーランド人に対する差別や偏見を助長させるものになったと考えられる。
記録:相良好美(グローバルプロミネント研究基幹 特任研究員)