研究成果・活動報告
Research & Activities

第7回 移民難民スタディーズ研究会 報告

第7回 移民難民スタディーズ研究会 報告

人の移動と帝国の残滓

2021年2月22日(月)

司会:中村千尋(千葉大学大学院社会科学研究院)

報告

「アジア・太平洋における移民をめぐるトランスナショナル・ネットワーク」高光佳絵(千葉大学大学院国際学術研究院)

本報告では、戦間期アジア・太平洋におけるアジア系移民排斥とトランスナショナル・ネットワークの関係の実態についての分析と、今後の研究の展望が示された。戦間期は帝国再編・解体期にあたる。アジア・太平洋地域におけるアメリカ中心のネットワークは1920年代半ばにYMCAから「太平洋問題調査会(The Institute of Pacific Relations)」へ移行しつつ発展したが、その過程で同地域の国際秩序形成に影響力を維持しようとするイギリス中心のBIIA(The British Institute of International Affairs)構想と競合・対立するに至った。

太平洋問題調査会(IPR)は1925年設立(1960年解散)の非政府組織である。非営利組織きながら国際政治への影響力が大きく、多数の支部を持っていたことで知られている。IPRはカナダ・オーストラリア・ニュージーランド(当時イギリス自治領)、中国、日本、アメリカの6支部で設立され、参加者はYMCA関係者、研究者、ビジネスマン、ジャーナリスト、引退した政治家、外交官などであった。

1925年は、アメリカ連邦議会で排日移民法が成立した翌年であり、IPRが設立されたのは、この立法で悪化する日本人の対米感情を憂慮するというモチベーションによるところであった。1927年までは、支部の他に11のメトロポリタンチャプターがあった。ホノルルを除く10のチャプターは主権国家外であり、主権国家ではない国のメトロポリタンチャプターを支部と認めるか否かについてIPR内で問題として取り立たされることもあった。IPRは民間団体であったが、帝国秩序と微妙な関係を持つネットワークであったと言える。

東アジアにおけるトランスナショナルネットワークの先駆のひとつにYMCAのネットワークがある。このネットワークの形成の原動力となったのがアメリカ YMCA と世界基督教学生連盟であり、世界基督教学生連盟を長期にわたって指導してきたのがジョン.R .モットである。YMCAは1844年にイギリスで創設された。都市部に生活する青年たちの精神面での状況改善を促すためのキリスト教平信徒の組織であり、聖書クラスや講演会を提供する活動を通じて瞬く間に拡大していった。YMCA は1888年に海外伝道事業を開始するが、これを非西洋へ拡大することを巡ってヨーロッパの YMCA とアメリカYMCAの間に対立が生じたとされている。ヨーロッパYMCAは資金難を理由に拡大に消極的であり、自国の植民地にアメリカYMCAが伝道することに抵抗感を持っていた。東アジアでアメリカYMCAを中心としたネットワークを広まる一方、第一次世界大戦後、イギリスの知識人たちは、イギリス帝国の力の限界を認識し始め、緩やかな連帯による帝国の維持を考えるようになる。それが各自治領におけるラウンドテーブル運動につながり、イギリス中心のネットワークであるBritish Institute of International affairs(BIIA)の形成につながった。

BIIAネットワークとIPRネットワークは競合する点があった。当初BIIAはアメリカをネットワーク下に引き入れることを企図し、外交問題評議会を設置したが、アジア・太平洋においてはそのネットワークがあまり機能しなかった。そのためBIIAは止むを得ず、IPRネットワークに参加することとなった。IPRネットワークがイギリスを飲み込むという形でアジアにおけるネットワークが拡大していった。設立時の国に加え、イギリス、フィリピン、フランス、オランダ、ソ連などに支部を広げていった。IPRの主な活動は1925年の第1回ホノルル会議を皮切りに、1958年の第13回ラホール会議に至るまでおおよそ2年ごとに開催された民間国際会議の開催のほか、学術雑誌と月刊誌、学術刊行物の発行などをおこなった。IPRの重要性が高まるとともに、YMCAのキリスト教色は薄れていき、アジアに関する専門知識を持つ集団という色彩を強めていった。

IPR設立の動機はアメリカ排日移民法であったが、実際のところ移民問題の解決にはあまり役立たなかった。移民問題は、第2回ホノルル会議(1927年)の時点で会議のテーマにとりあげられなくなるなど早くも議論のメインテーマから外れることとなった。その背景には、IPR内におけるアジア排斥問題からの関心の低下や移民政策をめぐる本国と自治領の対立があった。排日移民法の修正を目指す活動をすればするほど、排斥派も対抗して活発になるというジレンマも生じていた。この時期のイギリス自治領の地域(カナダ・オーストラリア)では実質的に移民排斥を支持しており、また、日本政府も移民のコントロールは主権に属するとの認識から制限に反対するわけではなかった。

IPR のネットワークは国際秩序の形成に影響力を残そうとするイギリス中心の BIIAネットワーク構想と同時期に出てきたものであり、両者は競合・対立しつつ形成されていたと捉えることができる。この英米両ネットワークの狭間で触媒的役割を担ったのが北米に位置するイギリス自治領カナダであり、一方でその過程において当時のカナダ社会の統合とイギリスの対外政策からの自律化を促進した重要なイシューがアジア系移民排斥であったという仮説を立てることができよう。それがIPRネットワークの中でアメリカに結びつくイシューであったということを、今後の資料分析を通じて実証していきたい。

「ブレグジットにおけるブリテン/アイルランド国境問題」崎山直樹(千葉大学大学院国際学術研究院)

2020年1月31日に実施されたブリテンの欧州連合離脱(Brexit)とは一体何だったのか。本報告ではブリテン内部での対立を離脱派、残留派双方の主張に注目し検討が報告された。ブレグジットの問題はブリテン内部で完結する話ではなく、当然EUとの交渉も必要となった。この交渉のプロセスの中で争点として浮上したのが国境問題である。歴史的な背景のあるブリテン―アイルランド間の国境問題は、多くの記憶を呼び覚ましながら、注目されていった。

移民社会の色合いが強いブリテンでは、Brexitの問題は移民問題と絡めて扱われることが多い。ところがブリテン全体では、移民の多いイングランド(85.3%、2011年)に比べ、北アイルランドの白人比率は98.2%と高く、実際の移民割合は少ない。

1980年代から1990年代の半ばまで、北アイルランドとアイルランド共和国における国境問題は「豊かな北と貧しい南」という前提で議論が組み建てられてきた。特に、北アイルランドは造船業をはじめとした産業の成長を背景に、南側と一緒に歩むのではなく、ブリテンの中で独自のポジションを築くという戦略が選択されてきた。しかし、1990年代後半に入り、この北と南の格差現象が逆転する。南(アイルランド共和国)の経済成長が進む一方で、北アイルランドの経済衰退は著しく、ユーロ危機以降、北アイルランドでは、反EUを掲げるポピュリズム政党が台頭することとなった。

転機となったのは、ユーロ危機以降(2012~2013年)の連合王立独立党(UKIP)の躍進である。2014年欧州議会議員選挙では、UKIPが保守党、労働党といった二大政党を抑え第一党に躍進した。これを受けて、保守党デーヴィッド・キャメロン首相がEU離脱の是非を問う国民投票を2017年末までに行うことを約束、2016年6月に国民投票が実施され、わずかな差ではあるが離脱派(51.89%)が多数を占める結果となった。この国民投票の結果を受け、キャメロン首相が退陣し、保守党党首となったテリーザ・メイが首相となった。また、政局の安定化を図るために、議会を解散し、総選挙が実施されることになった。ただし、この総選挙ではBrexitの是非ではなく、社会保障、再配分が焦点とされた。それは、Brexitを主題とすると、保守党、労働党ともに内部分裂する可能性が高く、また、スコットランド、北アイルランドなどの独立問題の再燃を避けるためであったと考えらる。総選挙では、どの政党も単独過半数にならず、野党連合を組み合わせても過半数にしないハング・パーラメントと呼ばれる状況になり、、なんの法律も通らないという空転状況に陥った。

この空転状況の中、Brexit交渉のキャスティングボートを握ったのは北アイルランドであり、国境問題が争点として浮上した。北アイルランドでは、南側とのハード・ボーダーを推し進める民主ユニオニスト党(DUP)と南北の国境復活阻止の立場を取るシン・フェイン党(SF)の関係悪化により、組閣が行われず政府が機能しない状態にあった。南北間では、国境がないものを前提に人の移動や社会生活、経済が動いていたが、DUPによる北アイルランド/アイルランド共和国間のハードボーダーの要求により議論が空転した。

南北住民の生活実態に反し、ハードボーダーを推し進めるDUPに対し、2017年総選挙では、アイルランド共和国との国境沿いの地域でのSFの影響力が増加した。さらに、2019年10月にブリテン政府とEUとの間で、アイルランド国境問題についての合意が形成され、北アイルランドがユーロ市場にとどまること、北アイルランド議会は4年後にユーロ市場にとどまるかブリテンルールを適応するかを決定できることとなり、長らく機能停止していた自治議会が再開された。2019年の総選挙では、DUPが一人負けを喫し、DUPの強硬的なハードボーダーの復活要求に住民からNOが突きつけられたかたちとなった。

以上のように、Brexitの問題はブリテン内部で完結する話ではなく、EUとの交渉の過程において、歴史的な背景があるブリテン/アイルランド国境問題をふたたび呼び覚ますこととなった。

参加者24名(zoomオンライン参加)

記録:相良好美(グローバルプロミネント研究基幹 特任研究員)

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